noteでいろいろな人の意見を見る度、自分はどうだろうと振り返ったりする。
でもnoteに書くと誰かを攻撃するようなことになるかもしれないと思って書けない。
そもそも上手く書けないからどうしようと何度も下書きをしたり、消したりして、いつまでも投稿できないでいる。
以前、知り合いだった方に、ある日突然ブロックされて何が何だか分からないまま縁が切れてしまったことがある。
その人はもしかしたら(あくまで推測)私と考えが違って、付き合うのが難しいと思ったのかもしれない。まあ私じゃないかもしれないし、全部ブロックしちゃったかもしれないし、深く追求する気はないし、そもできないのだけど。
こういうことはままある。ネットでもリアルでも、知り合って仲良くなるのも、違うなってなって離れるのもよくあることですね。なのでそれ自体は何も問題ないんだけど。
ふと思ったのは、「何が違ったのだろうか」ってこと。
(それが原因じゃなかったとしても。仮定としてね)
創作をするということ。
形になるものを作るということ。
そうした本やグッズを売るということ。
これらはみんな違うことです。
みんな違ってみんないい。
だから違ったなと思ったときに、相手を攻撃したり直させようとしたり自分の意見を言ったりするのではなく黙って離れたのかなーなんて思ったり。それは相手のやさしさだったかもしれません。
(重ねて言いますが、すべて私の勝手な想像です)
noteでも、いくつも記事を見ました。
「売れなくてもいい」「お金が欲しいわけじゃない」という人。創作がしたいだけだという人。
なるほど。私も別にお金が欲しいとか有名になりたいとかいう目的でやっているわけじゃありません。
私の活動目的は、「私が愛している自作を好んでくれる人がいるなら会ってみたい(できれば複数)」です。
その為に何が必要か。
創作する→本にする(自分が紙の本で読みたいから)→知ってもらう→手に取ってもらう→お金を払って買ってもらう(活動資金が出る一方では続かないので)
さらにいえば、ある程度の人数に触れてもらわなくては、自作を好きになってくれる人に出会える確率が低いままです。なので、知ってもらうための宣伝告知が必要。興味ない人は買ってくれなくてOKです。でも興味なかった人が、知って、その上で、興味持ってくれるならそれは嬉しいです。そのためにもなるべく多くの人に存在を知ってもらいたい。だから文学フリマに出ましたし、ネットでの事前活動もしました。
こういった活動をよしとしない人もいます。
宣伝して売りたいとか俗的であんまり、とか。自分の作品は人を選ぶから大っぴらに広告したくない、ひっそりしていたいんだ、とか。ま、いろいろ。
あるいはもっと、という人もいます。
たくさんの人に読まれたいから目を引く表紙やポスター、美麗なイラスト、派手な宣伝文句、目立つキャッチコピー、宣伝費にお金をかけて、人と交流して、友達増やして……みたいな人。商業の人なんかはそういうのありますよね。著名人、サイン会、無料配布を大量に、なんかも宣伝の一貫でしょう。
ヨシとしない人は、そういうのが嫌で……ていう人もいますね。
あとは「負けるから嫌だ」って人。それはねー。勝つしかないと思います。身も蓋もないけど。
そもそも売りたいわけじゃない、多数に届けたいわけじゃない、創作だけしてればいいんだって人もいますね。それはそれでいいと思います。自分のサイトに載せるとか、自己通販するとかするのもいいし。
「作品は中身で勝負。宣伝なんかで」という人もいますね。でもそれはお門違いだと思います。宣伝を専門に仕事にしている人がいることからも分かるように、プロモーションの効果で売り上げというのは段違いに変わりますし、とても大切なものだと思います。創作者はえてしてプロモーションが苦手だったりする傾向もあると思いますが、できない→不要とするのは違うかな。必要なものだと思います。
私がちょっと「えー?」と思うのは、文学フリマへ来て、売れなくて、それは売れている〇〇のせいだ、っていう人。売れるには理由がありますし、売れなくていいというなら文学フリマに出さなくていいじゃないですか。
「文学フリマはそういうイベントじゃない」あるいは、「昔は違った」っていう人もいます。文学フリマがどういうイベントなのか、は、私には分かりません。一回しか出たことないしさ。
これ難しい問題だと思うのですが……。
文学というものが「崇高なものである」「資本主義に介入されたくない」といった考えのもとに、閉じた世界になっていくと、最終的には衰退するのでは、と思います。ごく一部のオタクだけのものになるというか。
でも、本って本来はもっと自由で、誰でも手に取れて、楽しめるものなのかなと思います。
文学に限らず、学術書も、専門書も、エンタメも、雑誌も、みんな本であって、誰でも楽しめるものがあるのがいいのかなって。
文学フリマは「文学」に絞っているかもしれないけど、始まった発端は「このままでは文学というものが危ない、本屋以外でも売れるところがあれば」みたいなところから始まっているようなので、やっぱり「本を売る」「本が買える」というのが理念なんじゃないかと思うんですよね。そういう意味では本来文学フリマは『そういうもの』だったのでは、と思うのです。元から商業主義的というか。変わったんじゃなくて、最初からそうなんじゃないかな? 「仲間内で同人誌を渡し合う」「友だちに買ってもらう」とかではないんじゃないかなと思っています。フリマ、フリーマーケットっていうのは素人が物を売れる場であります。
個人的には商業主義が悪いもの、とも思っていないです。
一般的な本屋さん……書店と取次と出版社とありますが、売る方が儲からないとその業種って衰退すると思います。日本の本屋さんは今まであまりやり方を変えず、値段もそこまで高くせず、本を提供してきたと思いますが、やはり辛い職種であると思います。政治的、文化的側面からも、いやもうそのほかにもたっくさんの複合的理由ががんじがらめで、構造を変えるのは簡単なことじゃないと思う。だからこそ、新しい文学フリマという新しい場で、素人からプロから、誰でもが新しい構造を作っていくってことが必要だったんじゃないかな。まだまだ醸成されていないところもあると思うし、いろんな人が介在するから価値観が定まらないところもあると思いますが、その自由さも含めて伸びしろがあるというか、私は可能性を感じています。
ま、しかし。
やはり、商業であると思っていて。
素人ですが、同人誌ですが、私は文学フリマを「物の売買をする場」だと思っているのです。なので、「売りたいわけじゃない」とかいう意見を見ると、「ん?」と思ったり。まあ、それも自由ですけどね。値付けも、売り方も、参加の仕方すらも自由ですもんね。そうすることで誰でも参加しやすい環境を整えているんだろうなとも思いますし。
だから排除する気は全然なくて、私はこういう考え方してますね、っていうだけです。
意思表明ですらないかも。書くことによって自己理解を深めるいつもの私のやり方であって、人に強制するつもりは毛頭ありません。
だから、考えが違っても別によかったんですけど……あの人にとっては見るのも辛かったのかなあ。申し訳なかったなあ。そんなことをつらつらと考えてしまいます。違うかもしれないし、そもそも答えを求めることももうできないのですが。
本当はnoteに書きたかったけど、万が一その人が見てまた辛い思いをさせたら嫌だし、でも自分で書きたいことではあったし、個人サイトのブログに書くことにしました。はい。noteには何を書こうか……。
2025年06月07日
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